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大阪高等裁判所 昭和61年(ラ)124号 決定

抗告人 谷田部ケイ子 外1名

主文

原審判を取消す。

本件をいずれも神戸家庭裁判所尼崎支部に差戻す。

理由

一  本件抗告の趣旨と理由は別紙記載のとおりである。(抗告の趣旨省略)

二  当裁判所の判断

(一)  民法915条1項所定の熟慮期間は、相続人において相続開始の原因となる事実及びこれにより自己が法律上相続人となつた事実を知つた時から3か月以内に限定承認又は相続放棄をしなかつたのが相続財産が全く存在しないと信じたためであり、かつこのように信ずるにつき相当な理由を認めるべき特段の事情がある場合には、相続人が相続財産の全部若しくは一部の存在を認識した時又は通常これを認識しうべかりし時から起算するのが相当であると考える(最判昭59.4.27民集38巻6号698頁参照)。

(二)  本件事件記録によれば抗告人らは原裁判所に対する照会回答書の2項においては昭和59年9月23日亡父の死亡を知り、子供又は長女として相続権のあることは知つていた旨述べているが、同書4項では亡父の財産、借金のあることを知らず何一つ相続しないでいたところ、突然昭和61年1月27日債権者からの支払催告書が来て驚いた旨の記載があり、また抗告人らが早くから家を出て生活し、遠隔地で結婚生活をしていたし、亡父も生前は事業から手をひき借家の年金生活者であつたことなど1件記録により認められる諸般の事情に照らすと、抗告人らは同人らにおいて前示相続財産が全く存在しなかつたと信じ、かつこのように信ずるにつき相当の理由を認めるべき特段の事情がある旨を主張しており、かつこれが認められないものでもないことが明らかである。

(三)  家庭裁判所の相続放棄の申述の受理は本来その非訟事件たる性質、及びその審判手続の審理の限界などに照らし、被相続人の死亡時から3か月の期間経過後の放棄申述であつても右の相当な理由を認めるべさ特段の事情の主張があり、かつそれが相当と認めうる余地のあるものについては、その実体的事実の有無の判定を訴訟手続に委ね、当該申述が真意に出たものであることを確認したうえ、原則として申述を受理すべきものである。

三  したがつて、抗告人らの相続放棄の申述を却下した原審判は失当であるから、これを取消し、右申述を受理させる必要があるので本件を原裁判所に差戻すこととし、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 廣木重喜 裁判官 諸富吉嗣 吉川義春)

抗告理由書

一 原審判は、抗告人らが被相続人の死亡を知ったときをもって、形式的に相続の開始があったことを知ったときと認定し、本件申述が申立期間を経過していることを理由に却下し、抗告人らが、相続の開始があったことを知ったときについての抗告人らの主張につき何ら審理していない。

相続の開始があったことを知ったときとは、単に、相続人が被相続人の死亡を知り相続が開始し、自己が相続人となったことを知ったときではなく、右に加えて相続人が少なくとも積極財産の一部または消極財産の存在を確知したときと解するのがほぼ確定した判例といえる(御庁判決昭和54.3.22、判例時報938-51、同56.10.22、判例時報1042-104)。

二 本件における被相続人および抗告人らの経歴、被相続財産の状態について、原審における申立書記載のとおりであるが更に敷衍して主張する。

(1) 抗告人谷田部(本号においては抗告人という)は、中学校卒業後、職業訓練所、服装学院に学び、最終同36年9月同学院を卒業した。抗告人は、同35年10月服装学院に入学したときから被相続人の下を離れ、以後、被相続人の死亡に至る迄同居していない。被相続人の抗告人に対する養育等の経済的援助は、同36年9月の前記卒業迄である。抗告人は、右卒業後就職して自活し、同48年9月の婚姻後現在迄、夫の扶養下にある。

(2) 抗告人竹中(本号においては抗告人という)は、同40年3月高等学校を卒業し、卒業と同時に被相続人の下を離れ、以後被相続人の死亡に至る迄同居していない。被相続人の抗告人に対する養育等の経済的援助は、同40年3月の前記卒業迄である。抗告人は右卒業後就職して自活し、同44年4月の婚姻後、現在迄、夫の扶養下にある。

(3) 被相続人は、元本籍地において、友人と共同で自らも工事作業にあたるという零細な土木請負業を営んでいたが、同38年ごろ作業中の事故で大腿骨骨折をし、作業が不能になったことから事業を廃止し、3年位静養をし、回復後の同42年ごろ現住所地へ移転し、死亡迄同所に居住した。

現住所は、敷地約80坪の上にスレート葺の一部二階建の建物で、当時工場であった。被相続人は、所持資金をもって右建物を賃借し、1階を工場、2階部分を住居に改造し、同所で家族と居住するとともに、1階において大阪○○○○○有限会社を設立し、輸出包ぼう用木箱の製造業をした。ところが、同事業に失敗し、同社は同49年倒産し、被相続人はその後事業から手を引いた。

同51年ごろ被相続人の長男豊が、1階工場部分を利用して同種の木箱製造および機械部品の塗装を営むようになり、被相続人は、時々その手伝をし、日を過していたが、息子らと同居し、生計を一にしていたため、事実上その扶養下にあったこと、被相続人に年金収入があったことから、長男からはアルバイト料等の支給もなかった。建物の賃料は、工場部分を使用していた息子らが支払っていた。

なお、本申立の契機となった申立外吉川に対する借入債務は、長男が事業を開始するにあたり、資金援助を受け、被相続人が連帯保証したものであった。しかし、右事実は債務者である被相続人長男のみが知っており、他の家族には知らされていなかった。長男は、同52年6月木箱製造業を廃止し、三男寛も手伝い塗装業のみを営んでいたが、長男は、同55年婚姻を機に転職し、三男が塗装業を継続し、現在に至っている。右債務については、その後催告もなく、債務者である長男自身今回の催告を受ける迄失念しており、したがって、他の家族がその存在を知ることも無かった。

(4) 被相続人の死亡前の状態が前記のとおり、借家暮しで、持家すらなく、収入も年金のみの質素な生活状態であり、資産というべきものは皆無の状態であった。また、被相続人は、同49年以後事実上隠居生活に入っていたため、負債がある外観もなかった。

(5) 抗告人らは、被相続人の死亡とほぼ同時に、死亡の事実を知ったが、被相続人の状態が右のとおりであったため、具体的に相続しうるものは何もなく、相続に関する諸手続の必要性はないと思い、本申立時迄に至った。また、抗告人らは一切の相続財産も取得していない。

ところが、抗告人らは同61年1月末ごろ1月27日付書面により突然、前記債務についてその相続分である8分の1の各金4,021,230円につき支払の催告を受け、その存在を知った。

三 以上の事実下においては、抗告人らが、相続の開始を知ったときとは右催告を受けた早くとも同61年1月28日というべきである。

相続放棄の申述期間は、相続人に積極、消極を含めて相続財産の存否、範囲を把握し、相続するか否かの選択をするための考慮の機会を与える趣旨である。本件において、抗告人らは、相続財産が皆無の状態であったため右催告を受ける迄、相続の諾否を考慮する必要性もなかったのであり、その間考慮期間は進行していなかったといえる。抗告人らは被相続人の右債務発生時である同51年5月25日頃、既に婚姻して他家にあり、右債務の存在を知らなかったのも当然である。かかる者に相続の諾否につき考慮の機会も与えず、強制的に債務の承継をさすことは、相続の制度に反し、また酷である。

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